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オアシスはり灸治療院
併設:眼精疲労治療室
TEL 03-5980-7511

〒114-0023

東京都北区滝野川
7-8-9日原ビル3階

著者プロフィール

小宮 麻友美(オアシスはり灸治療院 院長)
通称 コリ取り名人

昭和46年生まれ 

出身、長野県長野市

8歳の時、スティーブンスジョンソン症候群という薬害にあう。

31歳で筑波盲学校に入学して鍼灸師となる。

2009年8月、オアシスはり灸治療院開業

メディアにも取り上げられる凄腕の女性鍼灸師

【目次】

第1章「幼少期編」
九死に一生を得た体験
第2章「青年期編」
難病を背負って生きる
第3章「社会人編」
重度のうつ病を発症
第4章「鍼灸師編」
希望のはりに未来を

第1章「幼少期編」~九死に一生を得た体験

今では、オアシスはり灸治療院の院長として日々、患者さんを治療できる程に、心身ともに気力にみちております。しかし、これまでの歩みは決して順風なものではありませんでした。皆様の中にも、過去に辛い体験をして、現在や将来に希望を見いだせないでいる方も少なくないと思います。

長野県のごく一般的な家庭で生まれ育ったわたくしは、8歳の時に生死をさまよう大病を患いました。

1私が小学校2年生の時の記憶です。その年の冬は、雪が少なく比較的な穏やかな天気が続いていました。その日は朝から雨が降っていました。朝はいつも通り学校まで2Kmの道のりを歩いて登校し、午前中は授業を受けていました。しかし、途中で今までに感じたことのない倦怠感が生じました。放課後の掃除のとき、机に椅子を乗せられないほど、重たいと感じたのを今でも覚えています。保健室で少し休ませてもらうことも考えましたが、何とか一人で家まで歩いて帰りました

夕方、家でぐったりしていると、仕事からかえってきた母が、私の体調の異変を察して、病院に連れていってくれることになりました。

その日は、あいにく土曜日で、かかりつけの鈴木医院が休みでした。そこて、母は、「良い薬を出すと評判の医院」があると知人から聞いたのを思い出し、はじめて、その院にかかりました。田中医院という内科でした。

そこでは、テトラサイクリン系の抗生物質と解熱鎮痛剤をもらい、家に帰ってから飲みました。

◆42度の高熱、振り切れる体温計

それらの薬を飲むとすぐ、顔が真っ赤になり、パンパンに腫れあがりました。熱を測ると体温計が降り切れてしまし42度を超えていました。これはただならない事態だと感じた母は、薬を出してもらった田中医院に電話をかけました。しかし、病院の受付の人に「先生は同窓会に出席するため、もう(病院には)いません」と言われました。

何度、熱を測っても体温計は振り切れており、顔の状態は、どんどんひどくなっていきました。親戚の伝手もあり、何とか日本赤十字病院に、夜遅くに受診することが出来ました。救急外の小児科の先生は、私を見るなり「即入院が必要」と判断し、深夜、そのまま日本赤十字病院小児科に入院しました。

◆刻一刻と悪化していく身体

翌日、目が覚めると身体のいたるところに異変を感じました。顔から、みるみる赤い発疹が全身に広がっていき。膝から上の皮膚が焼けただれたように真っ赤になって剥けていきました。

目や鼻、口の中、喉の粘膜もただれてしましました。今でも鮮明に覚えています。あの時の、自分の姿を。そして、刻一刻と変わり果てている自分の姿に、死の影を感じました。

先生、痛くなくなるお薬が欲しい。先生、私死んじゃうの?

言葉にならないほど、かすかな声で、先生に助けを、求めました。

ごめん、今の医学では痛みを取ることも、命を救うことも出来ない。

でも、あきらめないで、君が生きたいと強く願うなら、君は、また・・・生きられる。

私の症状について、先生も診断をつけることができませんでした。おたふくかぜ、川崎病、感染症など、様々な病気が疑われましたが

原因の特定には難航しました。

それからしばらく経ってから、母は先生から「こうなる前に、何か薬を飲んだのであれば、その病院にいって、飲んだ薬を聞いてきてほしい」と言われました。当時、母は先生の言葉が何を意味するのピント来なかったそうです。

確かに、本来なら病気を治すはずの薬です。

たった数粒の薬が、小さな少女の命を脅かすことがあることを誰が想像できるでしょうか。

最終的に、私の症状は、薬害によって全身の皮膚粘膜が焼けただれたようになるスティーブンスジョンソン症候群という病気であることがわかりました。

現在、スティーブンスジョンソン症候群は、患者会の働きによって国が指定する難病(特定疾患)に認定されています。スティーブンス・ジョンソン症候群は、医薬品の副作用により全身の皮膚粘膜に強い炎症を起こす病気です。発症は100万人に1名とごくまれですが、一命を取り留めても目や肺に重い後遺症が残る場合があります。目の障害として重症ドライアイや角膜混濁、肺の障害では労作性呼吸困難を伴う閉塞性細気管支炎が代表的です。

生命の持つ自然治癒力は計り知れない。

私は、死の淵から蘇りました。紙一重の差で生き抜いたのです。

人間の生命力は、すごいものです、

鍼灸師となって患者さんを治療する立場になった今。自らの体験があるからこそ、患者さんにも、同じことが言えるのです。治ると信じることが大切。絶対にあきらめちゃダメなんです。

あの時の、体験は、私に確信を与えてくれました。病を治すのは、人が本来持っていり自然治癒の力、生きようとする力です。

第2章「思春期編」後遺症との闘い

入院は2カ月に及びました。奇跡的に一命を取り留めましたが、目と肺に重い後遺症

以来、日常的に襲ってくる目の激痛と、視力を失うことへの不安の中で生きて参りました。時には、なぜ自分がこんなめに、と心を病むこともありました。
これからの人生、目と肺に後遺症障害を背負ったたまま、生きて行かなければならなくなったのです。

この病気は涙腺が障害され、涙が出なくなってしまうことがあります。私の場合は、ごくわずかですが涙腺の機能が残存しました。そのため、かろうじて日常生活を送れる視力が保たれていました。

ただ、常に眼の表面が痛い、いつも目が真っ赤、物が非常に見えにくく、光がまぶしいという状態で、小中高と生活を送っていました。

涙は目の生命線

涙は、泣いたとき・笑った時に出ると思われる方もいますが、私たちの目の表面は通常、薄い涙の層で保護されています。ですから涙が少なくなると、とたんに目は傷だらけになってしまいます。
私にとって、涙は目の生命線。もし、涙が全く出なくなってしまったら、、、。

人生は過酷なものです。その後、私の涙は徐々に減っていき20代中頃には、ついにゼロになります。

子供のころの「眼精疲労体験」

私は大病以後、小学生のころから「ひどい肩こり」に悩まされていました。常に目の周りに不快感があり、字を見ると途端に首・肩が痛くなりました。いつも全身倦怠感があり、ひどいときには頭痛と吐き気で食事もろくに取れませんでした。ですから、学校から帰って来ると、何もする気になれず、寝込んでいる毎日でした。おこずかいをもらうと、薬局に湿布を買いに行ったものでした。

今思うと、それは全て「目の疲れ・眼精疲労」が原因だったのだと思います。ただ、当時は眼精疲労という認識がなかった為、「なんでこんなに身体がつらいのだろうか」、と子供ながらに憂鬱な日々を過ごしていたのを覚えています。

目の痛みを理解されない苦しみ

足を骨折すれば松葉杖をつきますので周囲が心配してくれます。しかし、目が辛いという状況は、周囲にはあまり理解してもらえませんでした。目が痛いから寝込んでいるのに、周囲からは「怠けている、努力が足りない」などと言われ、精神的にも追い込まれていました。

教室の光はまぶしく、黒板の文字はぼやけて見えない。教科書の文字をみようとすると、ひどい頭痛と吐き気に襲われる。運動は、走ると呼吸困難になるので、ほとんどできませんでした。

その結果、学校の成績は良いものではありませんでした。病気のせいで夢をあきらめる、眼精疲労のせいで夢をあきらめる。それは、とても辛いことです。

第3章「社会人編」~重度のうつ病を発症

一人暮らしをしながら学生生活を送り、一般企業に就職しました。当時は、パソコンもそれほど普及していませんでしたが、それでも常にひどい眼精疲労に悩まされていました。それでも生きていくには、働かなくてはなりません。
生活費と治療費を稼ぐために働く日々。働けば働くほど目の症状は悪化する、という悪循環に陥っていました。
そのような中、やがて日常は破たんします。心身の疲労から「うつ病」を発症

20代の中ころ、重度の自律神経失調症、うつ病のため、一日の大半をベットの上で過ごすという時期がありました。不眠、耳鳴り、めまい、頭痛、動悸、全身の関節や筋肉痛みで立ち上がることもできませんでした。また、焦り、不安から、横になっていても、心が休まらない状態が続きました。

もちろん、病院で検査をしても異常は見つからず、医師からは心療内科の受診を勧められました。心療内科では、睡眠薬、抗精神薬による治療を受けましたが、一向に良くなる感じはありませんでした。それどころか、薬を飲み続けることへの不安、副作用に対する懸念から、さらに体調を崩し、最終的には1日15種類もの薬を服用するという日々が続きました。いわゆる「重度のうつ病」の状態でした。

第4章「鍼灸師編」~希望の鍼でに未来を託す

先が見えない生活の中、知人より鍼治療で重病が良くなったという話を聞き、実際にその鍼灸院を紹介してもらいました。その先生こそ、我が鍼の師であります。鍼治療との出会いがあったからこそ、今の私があると言っても過言ではありません。

その鍼灸院は遠方でしたが、週に3回、通い続けました。はじめは電車に乗ることも億劫だったのでタクシーを利用していました。しかし治療を受けた帰りは、不思議と活力が湧いてきて、電車でも帰宅できる状態となっていました。

治療初期は一進一退の状態

少しづつですが、夜も眠れるようになって、食欲も沸いてきました。薬の量も徐々に減り、1年あまりで薬なしで生活できるまでになりました。
ただし、鍼治療を継続して受けていく中で、眼精疲労の症状は、どうしても良くなりませんでした。このままでは、私は一生働けない。それならば自らが鍼灸師になり、自分で自分の眼精疲労を治すしかない。という思いに至ったのです。

自らの人生を鍼に託す

幸い日本には各都道府県に盲学校があり、盲学校の専攻科で鍼灸マッサージ国家資格を取得することができます。わたしは筑波大学付属盲学校鍼灸手技療法科に入学し、鍼灸師の国家資格を取得しました。

盲学校には、生まれながら目が見えない人、いつしか目が見えなくなってしまうかもしれない難病を抱えた人、事故などで突然視力を失った人など、実に様々な境遇の仲間と出会いました。皆の前向きな姿に、生きる勇気をもらいました。

おわりに

現在、鍼灸専門院を開業して12年目を迎えましたが、患者さんは延べ8万人を越えています。わたしたちの眼精疲労治療の技術は、苦しみの中、決してあきらめず、鍼によって希望を見出した経験から生みだした渾身の技術です。

最後になりましたが、鍼治療の魅力について、私の方からお話しします。 私は体力がなくマッサージができませんので、治療院は鍼灸専門としています。また、自分が様々な治療を受けてきた中で、自分が受けてよかったと思える治療のみを、患者さんにも行っています。

経絡治療は私の人生を変えてくれましたし、目の鍼がなければ、私は目を開けていることすらできません。 鍼治療は、これからもっと多くの人に必要とされる医術だと思います。

鍼灸師は社会に必要とされる素晴らしい職業です。皆様どうぞ鍼の技術に磨きをかけて、ともに社会に貢献できることを願っています。